書評

君に恋するなんて、ありえないはずだった 書評?

些細だけど、面白い出来事。単なるレジのうち間違い、1078円を出して、果たしてこの間違え方はするのか。 もし、278円の買い物に、10087円を出したら、「お客さん、10円と1円間違えていますよ」という会話が予想できる。そう思うと、無性におかしくて、家に帰って飛び跳ねた。

周りにとっての現実で、僕にとっての非現実
そんな話

靖貴のような高校生が日本にどれだけいるか

眼鏡、背は低め、痩せ型、ぼさぼさ頭、大人しくて、決して波風は立てない。少し頑固の入った真面目で、周りの空気を感じ取るのは得意だが、当の本人の事になると、天然が入る。

「スクールカースト」なるものが本当にあって、自分は底辺にいると考える。まさか自分が、「恋するなんて、ありえないはずだ」と、どれだけの学生が思うことだろう。

 

自分を「平凡だ」そう決め付けるのは容易い。それ以上、話は進展しないし、後退もしない。個性を重んじられる時代になったとは言え、自己主張するのは如何な物だと首を傾げる人は多い。

いや、寧ろ、個性を重要視する時代になったからこそ、人は他人と比べて、一喜一憂する。そして疲れる。そこに生き辛さを感じる。だから、考えないようにする。平凡でありたいと、自ら願う。

序盤の靖貴と同じく、多くの男子学生は、平凡であると自分を勝手に解釈し、終始学生生活を平穏で乗り切ろうとする。

恋は一部の特権階級の物なのだと解釈し、遠ざけることで、心の平生を図る。間違いない、それは紛れもない、自分の事だと知って、大人になってから後悔に耽る。

ただ、それ以上に、懐かしさを感じられる作品

非進学校の進学クラスだったがびょうの学校は、夏休みに勉強合宿があった。形だけの勉強合宿で、中身は修学旅行だったように記憶している。

必ず、男女の部屋の行き来を考える奴はいて、実際のところ、建物の構造上、容易に行き来ができたおかげで、勉強合宿で幾つかのカップルが成立していた。

がびょうは意識高い系であったので、一人ぼっち、自習室で勉強していた。が、その部屋の隣は謎の空間、カップルの溜り場だった。

チューチュー言い合う者、夜中なので眠くて「ボケー」とするだけの者、賭け花札をする者など、カップルによって一様に違っていた。そして、「応援してるぞ。このやろう」と面と向かって言うのも味気なかったので、ほうきでカップルを掃いたのはいい思い出である(暗黙の合意がある)

本当に「恋」に縁がなかったのか

誰しも春は来る。ただ、春を感じずに、過ぎる年もある。何度も感じずにいると、それが当たり前になって、終いに感じようとしなくなるだけなのだ。

がびょう本人の事は置いておいて、「俺、モテね~」と言い張る友人に話しを聞くと、全く青春がきたことがない人間に果たして遭った事があるか。いや、無い。

誰しもが、狭義の意味であっても、青春を謳歌していたという事実は、裏を返せば、自分にも似たような事があったのかと考えるきっかけを作ってくれる。そこまで、到達するのにも23年間かかった。

高校一年の頃だ。学祭の準備をする為に、生徒会室を訪れた時に知り合った、一人の女子生徒とうまくいきそうだったような気がする。

自分のクラスは、進学クラスだったためか、休憩室をする事になった。そのため、手すきになり、手持ち無沙汰で、応援にはいった生徒会室で、看板作りを手伝った。元々、人助けするのは苦にならなかったし、最後まで事を成そうとする気概があったため、毎日、夜遅くまで、手伝った。

クラスが違うため、最初のうちは、会話することの無かったその子と、次第になんかの話で盛り上がったことを覚えている。作業を終えて、設置作業をして、それで完成。いい雰囲気になったと、そう感じた。後は学祭本番だと。

その子とは結局、その日を最後に一度も会話せずに、学校生活を終えた。

がびょうは、学祭当日、季節はずれのインフルエンザに罹り、休んだ。

書評なんてしていない気がするが

『君にこいするなんて、ありえないはずだった』は、人それぞれに、異なった感想を抱かせる。がびょうの場合は、傍観者として、靖貴と北岡を当時のカップルと見比べた。

がびょうのクラスは「スクールカースト」が無かったから、クラス内の恋愛は、成立しやすく、話が漏れやすかったと記憶している。

もっと男女は積極的で、頻繁にカップルが出来、しかも結構長く続いていたな。という感じで、ほかのクラスや学校の事は知らないが、たぶん、多くの高校では靖貴と北岡みたいに、お互いがすれ違うことが多かったのではないかと、推測できる。